後ろ楯

昨夜のニュースで京都南座が改装オープンし、歌舞伎界の大御所含め、総勢69名が八坂神社までの400mを練り歩いたとのこと。それはどうでも良かったのだが、中村師童の話題になって、彼は父親が歌舞伎を廃業したので後ろ楯がなく苦労したようだった。
野村克也が、著者でも長嶋は読売、王は孫正義という後ろ楯があるが自分にはないとぼやいていた。
後ろ楯とは理解者、協力者という軽いものではなく、どんなことがあっても支えてくれる唯一無比の存在を言うと思うが、確かに処世術に長けている人にはいそうである。ただ、それは後ろ楯にもメリットがあるから、あえてそうなっているだけのことである。
野茂秀雄がなぜ格好いいかといえば、後ろ楯がなくても、ものともせず我が道を突き進み、メジャーリーグでも活躍することで、批判的だった人たちを見返したからと思う。
自分も51歳で転職してから、今の会社には後ろ楯がいないと常に感じながらここまできた。ただ、後ろ楯はあるに越したことはない。

さて、だいたいの人は親の存命中は、親が無条件で応援隊となるが、両親が亡くなったとき、自分には後ろ楯がいなくなったと寂しく感じるだろう。
だから、自分のこれからの勤めは可能な限り、子供たちの後ろ楯でい続けることかと考えている。
人は何歳になっても、誰かに甘えたくなるものだから。